
私が詩人中井繁一(明治25/1892生~昭和29/1954没、以下中井)を知ったのは、父から熊野市五郷町湯谷から誕生した有為な人物として、オークワ創業者の大桑勇とともに、中井の名前が挙がったときに始まる。
父は中井について、中井の二女(照子)の夫は、文学博士で、角川書店の創業者でもある角川源義であること。そして、角川は妻の実家のある熊野市へ何度か足を運んだり、熊野市民会館で講演会(※1)を行ったりしたことなどを話してくれた。
私の実家(五郷町桃崎、熊野石蔵美術館)には、曽祖父(画家田垣内友吉)が残した書籍の一つに、中井の口語歌集『芋と鼠っ子』が含まれていた。私の中井に対する関心は、この口語歌集によって更に高まった。
中井は明治25年(1892)8月29日(※2)、三重県南牟婁郡五郷村大字湯谷(※3)で福島峯松の長男として出生。後に同じ湯谷の中井家の養子となる。五郷尋常小学校を卒業後、同村の五郷郵便局に奉職。仕事の傍らローマ字で詩を詠んでいた。この頃、中井の仕事ぶりが局長夫人に認められ、その姪(しづ)と結婚する。
上京の前年、大正5年(1916)(中井24歳)には、ローマ字詩集『KUMANO KAIDOO』を岡村盛花堂(当時東京市)から出版する。

大正6年(1917)、中井は妻とともに上京。ローマ字普及運動を通して知り合ったとされる口語歌人鳴海要吉(※4)(図1)の、自宅2階を借りて移り住んだ。中井にとっての鳴海は、詩歌のローマ字表記の先駆者のような存在だった。
生活に余裕がなく、自身の蔵書を持ち出しては、浅草公園や銀座で売りながら妻子を養った。大正12年(1923)5月に印刷屋を始めるまでは、東淵江(現足立区)の艶紙工場で働いた。印刷屋を始めたのは「文学青年たちが金に困って同人雑誌も容易に出せぬことからで、いかにもロマンチスト繁一らしい発想にもとづいている」(※5)と、角川は中井が印刷屋を始めたきっかけを書いている。
中井はペンネームを「さめらう」と名乗り、印刷屋の名称も「さめらう書房」とした。「さめらう」の意味は、「自分よ目を覚ませ、心して生きろ」という「自分を鼓舞する」ものであったと推察する。
『うらぶる人―鳴海要吉の生涯』(津軽書房:平成5年(1993)刊行)高橋明雄著によると、「中井は小さな印刷屋を営みながら、詩を書き歌を詠み、要吉のよき理解者であったようだ。印刷屋になったら自分の詩集が思いどおりに出せるだらう、そう思ってはじめた人である。妻子を抱えて貧乏しながら、富ノ沢麟太郎や尾形亀之助、野村吉哉の面倒をみたり、佐藤春夫、横光利一との交遊もあった。恵風館から、佐藤春夫の序文と武井武雄の装幀で詩集『ゼリビンズの函」を出している。中井は佐藤春夫と同じ紀州の人であった。」(※6)と紹介されている。

鳴海は、大正14年(1925)に日本語版の詩集『土にかへれ』(※7)を出版し、高評を得る。出版記念会の発起人には与謝野寛、田山花袋、野口雨情、島崎藤村とともに、中井が名を連ねている。鳴海の周りには文芸誌の創刊を望む声が巻き起こり、大正15年(1926)3月、鳴海が主宰する文芸誌「新緑」が創刊される。(※8)
中井はこの「新緑」の同人で、「新緑」No33(10,11月号)には、中井の口語歌集『芋と鼠っ子』の出版記念会の写真が掲載されている。新緑同人が中井と鳴海を囲んで、総勢17名(※9)(図2)が写真に収まっている。出版記念会は『芋と鼠っ子』の会と称し、昭和4年(1929)9月14日、春日町(東京都練馬区)の料亭「大国」で開催された。
この号には「ツェツペリン号が来た」「社外投歌 中井繁一氏選」「中井繁一君著『芋の鼠っ子』世評」が載っている。「中井繁一君著『芋と鼠っ子』世評」には江部鴨村、田尻征夫、三猪牧子、室町劉吉、加藤四朗、森本雅樹らが、歌集の出版の喜びの声を寄せている。
熊野市木本町の「南紀新報社」の前身「紀南新報」昭和4年(1929)9月20日 号に「中井さめらう氏の『芋と鼠っ子』を祝ふ集ひ口語歌集の處女出版」として記事が載っており、約30名の盛会で鳴海要吉、朽木石生、佐藤春夫等が出席したとある。

『評伝鳴海要吉』(下北文化社:平成22年(2010)刊行)(図3)を著した鳴海研究者竹浪和夫氏(青森県在住)に、中井や鳴海のことを問い合わせたところ、中井とともに鳴海の活動を理解し支援していた松井泰の回想「互草庵松井泰先生回想記」(※10)を所蔵していることや、青森県近代文学館には雑誌「新緑」の一部が所蔵されていることが分かった。また、同近代文学館の計らいで「新緑」の中井関係の記載箇所をまとめていただいた。
中井は「新緑」創刊当時からの同人で「短歌文学」第8巻第5号(昭和8年6月1日発行)まで、中井の名前が見える。また、「新緑」創刊号(第1巻第1号)から、9月号(第1巻第6号)まで、印刷者として携わっている。
「新緑」に発表した歌の題名は「君と我」「奔流に棹さす」「坊作」「母来る」「熊野灘」「母の手土産に」「かけどりの歌」「冷床もぐる」「ほそまゆ」「年のくれ」「ツェツペリン号が来た」が掲載されている。

既に記述した通り、中井は3冊の著書を世に問うた。
【 1冊目】ローマ字詩集『KUMANO KAIDOO』(図4)は、大正5年(1916)8月3日発行。著作兼発行者は中井。印刷者は佐藤保太郎、発行所は岡村盛花堂。序文は鳴海要吉。
このローマ字詩集に仙台の地で接し当時、高校生活を送っていた富ノ沢麟太郎が感動し、後に中井との文通が始まった。
本詩集には、熊野の名所の画像(獅子岩、緑橋、尾呂志川、鬼ヶ城)とともに、出版当時の中井の画像が掲載されている。
『流れ谷誌17号』『流れ谷誌20号』(※11)には、2回に分けて、日本語訳の詩が掲載された。目次 吉野街道―心―千鳥―故郷へ旅立つ妻を送って―たたかい―西の国へ―都の友に―葉巻

【2冊目】『ゼリビンズの函』(図5)は、大正15年(1926)8月5日発行。発行者は鈴木恵一、印刷者は岡信吉(五郷町桃崎出身)、発行所は恵風館。序文は佐藤春夫「『ゼリビンズの函』の著者」、加藤四郎の「祝福」、武井武雄が装丁を担当
目次 夜の風景―糖瘡悲歌―嫉妬―黒枠の葉書を前に―野火―乾ける毒血―眠れる子等―初夏―窓―銀杏の実と子供―緑蔭映帆―ゼリビンズの函―別れ―あはれ旅人白く冷い墓石に凭れ―潮の音―たてつけの悪い木戸―紀州熊野に帰りて詠める―ふるさとの幼き友へ―道邊の石―市房山の麓を思ふ―断章
【3冊目】『芋と鼠っ子』(図6)は、昭和4年(1929)8月28日発行。中井が著作、印刷兼発行者、発行所はさめらう書房。序文は鳴海要吉、花岡謙二が書いた。この本が出版された時、出版記念会が開催された(第3章に記載)。

目次 十三年ぶりの帰省(多摩川べり・指・日比谷音楽堂・品川の海)―家の鼠っ子(おそなへ・文楽所見
―信州の旅(聲)―震災記念日(にごり酒・顔)―かけとり(ひつぎ)―連れ立つ山(夢の家)
―壁ひとへ―島の二ヶ月―熊野風景(吉野路)
物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦の『寺田寅彦全集第12巻』には、明治45年(1912)から大正9年(1920)までの日記が収められており、この中に中井の記述が2つある(※12)。この記述を知った角川が、 晩年の中井に尋ねたところ、物理学者の田丸卓郎が主催していた雑誌「ローマ字世界」(※13)の寄付を募るために、寺田宅を訪問した折の、エピソードであるという。
また、中井のさめらう書房からは、8点の文芸書が発行されていた。
1.詩集 月に向って(加藤四郎著)昭和2年1月/2.童謡集 赤い窓から(田尻征夫著)昭和2年2月
3.詩集 微笑の沼(中条辰夫著)大正15年5月/4.詩集 頭骸骨(奈良幸夫著、加藤四郎編)昭和3年8月
5.詩集 星の音楽(野村吉哉著)大正13年10月/6.感傷詩集 鏡(本田親男著)昭和3年8月
7.酔っぱらった骸骨(物上照夫著)昭和4年1月/8.人麿短歌全集(鳴海要吉著)昭和2年9月
中井とって、詩を通した無二の友人富ノ澤の生涯については、富ノ澤と同郷の小説家浜田隼雄「富ノ澤麟太郎伝」(※14)に詳しい。
富ノ澤は明治32年(1899)3月25日、山形で生まれる。2年後、父の郷里、仙台に移り住む。父は山形自由新聞や、東京朝日新聞仙台支局主任を歴任した新聞記者だったが、富ノ澤が18歳の時に亡くなり、母と2人暮らしになった。
大正7年(1918)4月、早稲田大学に進学。同大の横光利一、中山義秀、小島勗、結城源心、古賀龍視と出会う。既に記述した通り、富ノ澤が中井と出会うきっかけは、富ノ澤が中井のローマ字詩集『KUMANO KAIDOO』に感動し、2人の間に文通が始まったことによる。富ノ澤が進学した年の1年前に中井が上京しており、2人は中井が住んでいた鳴海宅の2階で初対面を果たした。
これを期に、2人は交流を深めた。中井は富ノ澤に同郷の文学者佐藤春夫を紹介した。後に、富ノ澤は佐藤春夫に師事する。また、富ノ澤は大学で交流を深めた横光、中山らと、大正10年(1921)に同人誌「街」を刊行した。翌年には同人誌「塔」を刊行し、中井も同人として加わり小説「蜥蜴」を投稿した。
佐藤春夫は、富ノ澤の文才や人柄を愛し、昭和38年(1963)に刊行された『詩文半世紀』の中で、富ノ澤を「カッパ」(愛称)と呼び、「まことに僕訥ですなおに愛すべき性格で、文学の素質を「表現力は段々と進歩してくるし、構想はいよいよ複雑になって来た。非常にロマンチックで、少し暗い作風であるが、個性的なもので、わたくしも楽しみに彼の成長を待っていた」と評価している。佐藤は富ノ澤の才能に期待をかけ、雑誌「改造」へ富ノ澤の小説「流星」を推薦した。一躍富ノ澤は、新進作家として注目されるようになったものの、次作執筆に強いプレッシャーを覚え苦悩した。佐藤は富ノ澤を励ますために、佐藤の父の故郷である那智勝浦の下里へ招いた。しかし、到着直後「ワイル病」という難病にかかり、大正14年(1925)2月24日、看病のためにやってきた母に看取られなが、25歳の若さで逝去した。(※15)
富ノ澤の、あまりにも早い逝去を悼む文芸仲間によって、「文芸時代」大正14年(1925)5月号に「富ノ澤麟太郎氏の追憶」が特集された(※16)。中井は「私の郷里に死んだ富ノ澤麟太郎」という一文を寄せた。中井は、富ノ澤との思い出を綴った文章を、富ノ澤の遺骨前の机上に置き哀悼の意を述べたという。中井と富ノ澤が最後に会ったのは、実家へ帰省していた佐藤春夫に招かれた富ノ澤が、那智勝浦へと向かう前に、近所のカフェで紅茶を飲んだのが最後だった。
富ノ澤は亡くなる前、看病する母が止めるのを聞かず、病でおぼつかない手でハサミを手に取り自分の髪を切った。富ノ澤は母に、この髪を形見として3人(中井、横光利一、結城源心)の無二の友人に届けさせた。その後、中井は『夢と真実』昭和3年(1928)に私家本(150冊限定)を。横光は『富ノ澤麟太郎作品集』昭和11年(1936)(沙羅書店)を刊行し、富ノ澤を哀悼した。
第3章の『うらぶる人』高橋明雄著で、中井のことが紹介されている文章の中に「富ノ澤麟太郎や尾形亀之助、野村吉哉の面倒をみたり」の記述がある。紹介されている富ノ澤との関係は第6章で述べた通りであるが、不明な尾形や野村についても調べを進めた。
(1)尾形亀之助
尾形は、明治33年(1900)12月12日、現宮城県大河原町生まれ。実家からの仕送りに頼り、定職に就かず、詩人として『色ガラスの街』『雨になる朝』『障子のある家』を刊行した。晩年は妻との不和に悩まされ、
失意の中昭和17年(1942)12月2日逝去する。
尾形については、数々の書籍が刊行されているが『評伝尾形亀之助』(冬樹社:昭和54年(1979)刊行)によると、尾形は『色ガラスの街』や雑誌「月曜」を恵風館(因みに中井は、同出版社より『ゼリビンズの函』を刊行している)から刊行しており、同雑誌「月曜」には、鳴海要吉が口語歌を投稿していることが分かった。また、雑誌「月曜」(1月号から4月号)が、日本近代文学館(東京都目黒区駒場)に所蔵されており、1月号には「蜜蜂と権太の馬」、2月号には「潮」と、中井の作品が掲載されている。
(2)野村吉哉
野村は、明治34年(1901)11月15日、現京都市生まれ。染物屋や玩具店の小僧をしながら、詩集を2冊『星の音楽』『三角形の太陽』刊行した。また野村は『放浪記』を著した林芙美子と同棲していた。昭和15年(1940)8月29日没。
野村の作品集が『魂の配達 野村吉哉作品集』(草思社:昭和58年(1983)刊行)詩人岩田宏編集によって刊行されている。この中に、野村の詩や小説、童話、エッセーが収録されており、「出所一覧」によると、第1詩集となった『星の音楽』は、中井の印刷屋さめらう書房が印刷所となっている。また、『星の音楽』は、早稲田大学図書館特殊コレクション「衣笠詩文庫」(※17)で所蔵されている。

熊野石蔵美術館(私の実家)の観覧に訪れた、中井と親戚筋にあたる瀬戸保太郎氏(大阪在住)と懇意になり、中井に纏わる資料提供を受けた。
中井と保太郎氏の父富生は双従兄にあたる。中井は、富生と保太郎氏祖父常蔵もともに密接な関係にあったことが、資料より垣間見える。
中井の名前が見えるのは、常蔵の日記で瀬戸家の家内親戚宴会(明治末か大正の初め頃)に参加したと書かれている。中井は大正6年(1917)に妻子を伴い上京。昭和3年(1928)には、保太郎氏の父富生が大工修業のため上京した。
富生は、五郷から上京し中井を頼った。富生が、東京で感染病に罹ったときは、中井は常蔵に電報で知らせたり、富生の看病をしたりした。常蔵と富生は、このときの中井の好意に終生感謝していた。
中井は妻しづとの間に6人の子どもをもうけた。長男省三、二男幸三、三男文夫、娘2人(二女照子・角川書店創業者角川源義の妻)、四男理である。中井は「印刷趣味」(図7)(※18)という雑誌を発行していたが、そこには中井の名前を筆頭に、省三、幸三の名前が載っていることから、中井の印刷の仕事を手伝っていたのであろう。

中井と角川は、終戦後ほどなく知り合った。その時、中井は眼を患っており、近くに住んでいた角川の家に来ては、本棚にある詩歌集を懐かしそうに読んだり、『紀伊続風土記』を借りていったりした。
中井が常蔵に宛てた年賀状(昭和27年元旦)には「辰年に辰の五度めぐりきて酒ものめけりありがたきかな 御老体お大事に願います 小生の目も相変らずです加えて一昨冬より左半身やや不随の気味で引籠りばかりで候」(図8)と、眼に加えて左半身が不随気味とある。
角川が、中井の二女照子と結婚したのは、昭和24年(1949)。角川は再婚で3人の子持ちだった。(※19)この時、中井ら家族は、長年住んでいた渋谷から疎開し、杉並の天沼に移り住んだ。角川と照子の間には、女子(真理)が昭和26年(1951)7月に生れた。
中井は、昭和29年(1954)6月29日、胃癌で死去した。中井の死亡通知は、五郷の瀬戸家にも届き、四男理の養父横平朝義、甥福島忠明、大平満の3人が上京、中井の葬儀に出席した。
中井の死後、昭和33年(1958)に妻しづは常蔵へ年賀状を出している。しづについては、いつ亡くなったかは定かではない。しかし、角川書店の創業50周年記念誌『角川書店と私』の社員名簿には、昭和45年(1970)総務部勤務とある。
平成27年(2015)時点で、居住人口が27人と、過疎化が急速に進行している熊野市五郷町湯谷。この地より、大正から昭和にかけて、東京で多くの同士と深い交わりを紡ぎながら、ローマ字詩を詠み出版した、中井という人物がしいkした。私はこのことに誇りと敬意を表し、その歩んできた人生を、1つの形にようやくまとめ上げることが出来た。しかし、私は未だこの内容に心許ない思いを抱いている。
それは、中井を深く知るにつれて、中井の詩人としての力量は勿論、同士や親類縁者との交わりから伝わってくる「至誠」である。中井について、多くのことが掘り起こされてくる来る度に、その思いを強くするとともに、次々に、課題や疑問に残ることが湧き上がってくるのである。
これからも、課題や疑問について調査を継続し、中井の詩歌と文集、伝記を一つに纏めた書籍の刊行に繋げたい。中井は生前「誰にもよく分かる、読みやすく歌いやすい詩歌を詠む、民衆的な一詩人として進むことを念じた」と自分を語っている。私の中井に対する、最大の餞になるものと思う。
最後になるが、本文執筆にあたり、瀬戸保太郎氏からは資料提供を。鳴海要吉については、特に『評伝鳴海要吉』の著者竹浪和夫氏と御子息の竹浪直人氏に、大変お世話になった。和夫氏には、鳴海が主宰していた雑誌「新緑」のことを教えて頂いた。直人氏からは、青森県近代文学館に所蔵されている雑誌「新緑」の中井の部分を、「新緑」(中井繁一関連部分)として、労を厭わずまとめて頂いた。改めて瀬戸氏、両竹浪氏に、感謝の意を表する次第である。
(※1)講演会は昭和48年(1973)3月、熊野市民会館大ホールにて「熊野地方の民俗学」と題して開かれた。参考にした『流れ谷誌』には講演のことと、中井の略歴が書かれている。
(※2)熊野歴史民俗資料館所蔵「明治二十五年基 徴兵検査関係書類 五郷村」(旧五郷村役場旧蔵)参照。
(※3)角川源義の文章「中井繁一のこと」によると、「中井繁一は三重県南牟婁郡五郷村湯屋(現熊野市)に生れた。」とあるが、これは湯谷の間違い。湯屋という地名は五郷町桃崎にあるが、これと間違えた可能性が高い。
(※4)鳴海要吉は明治16年(1883)、現青森県黒石市生まれの歌人。作家、秋田雨雀と同郷で交流があった。明治38年(1905)に上京して田山花袋の書生となる。明治42年(1909)には口語短歌「半島の旅情」を発表し、大正15年(1926)には口語歌誌「新緑」を創刊。昭和34年(1959)12月17日死去。
(※5)『角川源義全集第5巻』「中井繁一のこと」より
(※6)『うらぶる人―鳴海要吉の生涯』P144
(※7)『TUTI NI KAERA』は大正3年(1914)12月、日本ローマ字社よりローマ字詩集として鳴海要吉が刊行した。大正14年(1925)には日本語版が出版された。日本語版で追記された鳴海の「『土にかへれ』再生版にしるす」によると、「~(略)~本集が、今回更に世に出るに至ったのは中井繁一、松井泰両君の熱心なる斡旋と柳川宗之助君の格別なる心づくしと~(略)~」と書いている。中井は印刷者として出版に携わった。
(※8)「新緑」創刊号には短歌、小説、童話、雑録を掲載しているところから当初は「文芸誌」を目指していたと推測されるが、号を重ねるごとに「口語短歌誌」に変化していった。最終的に「新緑」は「口語短歌」普及の「結社の機関誌」となった。
(※9)写真に載っている人を記すと(右から前列)梶弘和、児玉茂、鳴海要吉、中井繁一、平畠武治、坂井松太郎、森田甲浪、加藤由蔵(中列)磯村善夫、室町劉吉、(後列)加藤四朗、萩田十八三、曽我和重、森本雅樹、柳川宗之助、奥田豊、朽木石生
(※10)「互草庵松井泰先生回想記」は竹浪和夫氏が聞き取りして、「下北文化」に掲載されたもの。松井泰は「中井繁一君という人は青山南町で印刷所をやっていた。歌人で要吉の信者の一人だった。たしか『芋と鼠っ子』とかいう歌集を出している。『土にかへれ』は中井君のところで印刷したんだ」と中井のことを回想している。
(※11)『流れ谷誌』は熊野市飛鳥町の小西清次、倉谷任泰が昭和37年(1962)から刊行していた文芸雑誌。平成23年(2011)まで第27号を数えた。
(※12)「夜鳴海要吉、中井醒郎両君来る」(大正7年5月11日)、「中井醒郎氏来るアカツキ社寄付六円頼む」(大正7年7月2日)
(※13)「ローマ字世界」とは日本式ローマ字を広めるための機関紙。「日本のローマ字社」が発行していた。著名な執筆者に上田万年、三上参次、寺田寅彦、金田一京助等がいた。
(※14)「富ノ澤麟太郎伝」は「現代東北」に昭和38年(1963)5月から昭和41年(1966)まで第1章~第53章を連載。第54章から130章までは書きおろしで『濱田隼雄作品集』にはじめて掲載された。当時、現存していた富ノ澤と交流のあった中山義秀と井伏鱒二に取材をしている。
(※15)ひとり息子のために看病に来ていた富ノ澤の母は東京へ富ノ澤の遺骨を持ち帰ったあと、横光利一をはじめとする富ノ澤の旧友たちに、春夫の家族たちの対応のいたらなさを批判して吹聴した。そこで、横光が春夫を批判する文章を書いたため、横光と春夫の間に溝が出来てしまい、生前、ふたりの仲が解消されることはなかった。
(※16)「文芸時代五月号」に富ノ沢麟太郎の追憶として以下の人が寄稿した。結城源心「彼の思い出」、中井繁一「私の郷国に死んだ富ノ沢麟太郎」、古賀龍視「富ノ沢麟太郎の追憶」、横光利一「富ノ沢麟太郎」、諏訪三郎「我等の仲間としての富ノ沢君」、宮城久輝「春宵焼友」
(※17)「衣笠詩文庫」は元ミツワ石鹸副社長の衣笠静夫が収集したもの。
(※18)「印刷趣味」は瀬戸家で第一号(昭和八年一月)、第拾貮号(昭和九年七月)が残っている。
(※19)角川は鈴木富美子との間に長女眞弓(のちの作家・辺見じゅん)、長男春樹、二男歴彦が生れている。
中井繁一関係
・『流れ谷誌 第十七号』平成2年 流れ谷同志会
・『流れ谷誌 第二十号』平成9年 流れ谷同志会
・『熊野文化集録版』平成7年 熊野文化協会
・『角川源義全集第5巻』昭和63年 角川書店
・『寺田寅彦全集第12巻』昭和61年 岩波書店
・『増補改訂現代日本文芸総覧 中巻』平成4年 小田切進 明治文献資料刊行会
・『明治大正期文芸書総目録』平成19年 日外アソシエーツ
・『現代詩誌総覧 1 前衛芸術のコスモロジー』平成8年 日外アソシエーツ
・『角川書店と私』平成7年 角川書店創立五十周年記念出版編集委員会印刷
富ノ沢麟太郎関係
・『濱田隼雄作品集』昭和50年 濱田隼雄作品集刊行委員会
・「文献渉猟4富ノ沢麟太郎の「夢と真実」中井繁一の刊本のこと」昭和63年 関井光男 学燈社 『国文学:解釈と教材の研究』収録
・『定本佐藤春夫全集 34巻』平成13年 臨川書店
・『定本佐藤春夫全集 36巻』平成13年 臨川書店
・『佐藤春夫読本』平成27年 監修辻本雄一、編著河野龍也 勉誠出版
・『作家の自伝12 佐藤春夫』平成6年 日本図書センター
・『<異>なる関西』平成30年 日本近代文学会関西支部編集委員会
・『富ノ澤麟太郎三篇』平成12年 宮内淳子
・『塔 複製版』昭和45年 田邊孝治
・『評伝と研究 横光利一』平成6年 井上謙 おうふう
鳴海要吉関係
・『詩集 土にかへれ』昭和54年 津軽書房(復刻版)
・『うらぶる人 口語歌人鳴海要吉の生涯』平成5年 津軽書房
・『評伝鳴海要吉』平成22年 竹浪和夫 下北文化社
尾形亀之助・野村吉哉関係
・『評伝尾形亀之助』昭和54年 秋元潔 冬樹社
・『尾形亀之助全集 増補改訂版』平成11年 思潮社
・『魂の配達 野村𠮷哉作品集』昭和58年 岩田宏 草思社
・『衣笠詩文庫目録』昭和38年 早稲田大学図書館